昭和40年11月16日 朝の御理解 ●
人間と身代と達者という事で、おかげを頂いてまいりませんと、どれが一つ間違えましても、どれが一つ互い違いになりましても、人間の本当の幸せということはありえません。 お金があっても、まめでない。まめであってもお金がない。お金はあっても、まめであっても、子孫が続かぬ。と言うような事ではおかげではない。それがしかも三代続いたら、神の気感にかのうた氏子とこう仰る。でも、私共がですね、折角信心をさせて頂くのでございますから、神様の気感に叶うという事、ね、いわゆるお心にかなうという事。ね、そこから、神様の感応、受け答える、お、頂かせてもらうという事がいうなら、教祖のみ教え、教祖の神様の願いとなさったところはそれである。そういう、うーおかげを頂かなければならん。誰でも、それならそういうおかげを頂きたいと願う者はありますけれども、その、なかなかそういうおかげを受けておる人は少ない。親の時はおかげ受けても、子供の代の時にはおかげ頂いていない。もう孫の代にはその信心すら、もう薄いものになったり、無くなったりしておる。これでは一つ本当の、教祖の神様の願いとされる、又天地の親神様が、どうぞ、信心しておかげを受けてくれよと仰る、お心に沿わない事になる。何故なのか、どうして、そういうおかげが頂けんのかと。金光大神のお取次ぎを頂かせてもろうて、日々おかげを頂かせてもらうのであるから、折角おかげを頂くのならばそういうようなおかげに進展してくるようなおかげを頂かなければならん。
ね。それはね、教祖は仰っておられますね、神の大恩を知らんからと仰る。ね。神の大恩を知らんからそれが互い違いになってくるぞとこう仰る。信心をさせて頂いたらみんな、神の大恩が分かるかというとそうじゃない。おかげは分かるけれども神様の大恩、はあもう金光様のおかげを頂かれるばってん、何々様もおかげ頂かれるというような事になる。これでは神の大恩が分かっておるという訳じゃない。神というのはもちろん。祖神、親神様という意味ですよね。ね、金光教で言う神はそういうこと。天地の親神、天地金乃神と言う事。「天地金乃神と言うことは天地一目に見ておるぞ」とこう仰る。天地金乃神と言う事は天地の守じゃからとも仰る。天地の守じゃから離れる事が出来ぬと仰る。そういう意味においての神なのである。ね、その、天地の守であり、天地を一目に見てござるという神様の大恩を知らぬから、互い違いになる。世の中の難儀という難儀。悲劇という悲劇。その、おー悲劇がです、難儀がです、みんな、神の大恩を知らぬから互い違いな事になっておかげが受けられぬ。親が先立ったり、子供が先立ったり、親が先立ったり、ね、思うようにならぬが浮世と、というような事に(?)。そういう人があるんですね。もうそんなもんだと。この世は苦しいものだ、苦の世だ苦の世界だと決めきってしまっておる。ね。それは、まあ、輪廻の宗教はありますよね。天地、まあ天地の神様を対象としておる。というような、所がです、その教祖の神様が把握されたというか、教祖の神様にご依頼なさったと言う、天地の親神様は、そういうものじゃないですね。もう人間と共に限りなく神様があいよかけよで、栄えておいでになるという神様なんです。ね。例えばあの、一つの食物訓なんかをみても、それであるという事が分かるでしょうが。
ね。今ごろそういう、精進をしておるようなお坊さんなんかおられませんかもしれませんけれども、昔は、ね、妻帯をしないとか、肉食をしないとか、いわゆる、精進料理を一生食べつづけて、それが信心だと言う風に言われる宗教があります。これはまあ日本の、世界の三大宗教といわれる、仏教とかキリスト教とかというんでも同じ事。キリスト教でもそうです。第一お酒を飲んじゃならん。ね。そこんところを例えば教祖の神様が例えば、頂かれた所の天地の親神様。教祖の神様に現れなさった処の天地の親神様はそういう、性質の神様ではなかったということ。この辺のがですね、金光教の信心の一番尊い所であり、有り難い所であり、いわゆる、成程世界の名教だという所以があるですよ。ね。食物訓だけでもそれが分かるですよ。「食物は皆人の命の為に天地の神がつくり与えたもの。」と仰るです。ね、この世で食べられるというもの。それは牛でも馬でも野菜でもお魚でも、人間の命の為に天地の神が作り与えて下さってあるんだという風にここからすでに違うでしょうが。素晴らしいですね。けれども最後が厳しいですね。大酒大食をすると絶食の元になるぞと仰っておる。この辺がもう大変なみやすいお言葉のようであって、大変な厳しいお言葉だと思うのです。ね。肉は食べちゃいかんぞ、酒は飲んではいかんぞとは仰らん。肉も良し、お酒も良い。(?)世の中にある、人間の食べて食べられるもの一切それは、天地の親神様の作り与えたもの。人間の為にしかも命の為に作り与えて下さったものだとこう仰る。
ね。正し大酒大食は絶食、その命を絶つような結果になるぞとこう仰っておられる。もうこの辺なんかに至ってくるともう素晴らしいですね。お道の信心は。皆さんそこん所ですね、本当に把握成されねばならんです。ね。お互いが、ね、おいしいおいしい、飲むほどに酔うほどに、と酔狂が出るようになっちゃいかんち言う事。お酒でも。「はあ美味しいけん、まあいっぱい食べようか」ちゅうごたる風でです、もう明日、あくる日は胃が悪うしてこたえんちいうような事じゃいかんち。ね。食物訓一つを、見てもです、成程名教たる所以が分かるでしょうが。ね。アメリカ人にだって、ね。熱い国のいわば黒人の人であろうが白人の人であろうが、黄色人種の人であろうがです、人種という人種の上にです、ね、お働きをかけて下さる神様であり、どの、どういう、人種の上においてもです、合点がいくように教えておられます。ね。
はあーもうお醤油一滴でも、吸うようにして食べなければ、飲まなければ勿体無い。金光様の信心はそげな信心だというような、こまい信心したらつまらん。もうそげな事いいよるならもう、それこそアメリカあたり、まあ、レストランあたりで食事する人達は、そういう、あーいうなら、まあなんち言うでしょうか、まあ文明人とでも申しましょうかね、の人には金光教の信心は向かんち言う事になる。ね、ならもうお腹が丁度よいごとなったら、例え皿の中にどれだけ余っておってもです。それは、捨ててもよい。捨てても良いとは教えておられないけれども、なら、命の為にだけ頂けとこう仰っておられる。命を害する為には勿体ないち、食べてはならんぞとは仰ってはいないという事。ここになってくる時も、んならどういうアメリカの人であろうが、その、知らぬ人であろうが、ここんところを言うたら合点が行くだろうと思うですたいね。ね。それを私共は間違えてから、その、てんでも腹一杯食べておっておっちゃ、勿体なかけんでち言うてから、(?)食べちから、明くる日、(?)。そりゃ神様喜びなさらんですよね。私は決してそのお食物をお粗末にせろと言っておるわけではない。ね。お醤油ならお醤油を一つ使わせて頂くでも、丁度、いい加減に余らんくらいにつがせて頂くという事は天地の大恩が分かれば又それが、そうしなければおられなく段々なってくるのであって、そうしなければおかげが受けられんというのではない。
ね。ひとすくいの水だって、お粗末にはつかえない事になってくる。けれども、お道の信心は水ひとすくいでもです、粗末にしちゃならんというような宗教じゃないという事。ね、この辺を皆さん本当、把握しなければいけないと思うんですね。そういうところが分かって来るからです、金光様でなければならんという事になるのであり、そういう事を教えて頂くから椛目なければでならんと言う事にまでなって来るんです。私共、食物訓だけでもです、今私が説いたような風には今まで頂いて来なかったです。そして、私共思いよったです。しかし、こりゃ日本人にはよかろうばってん、アメリカ人にやらこりゃむかんとこりゃ思いよったです。ところがそうじゃないですね。椛目で御理解を頂きますとそうじゃないです。成程世界の隅々にまで広がっていけれる、ものを持っておるです。
先程のキリスト教の信者もしようごとなかごとなる。ね。久保山先生のごと、本当、もう、お酒好きの人はもう仏教の信心やらとても、出来んという事、本当の事すりゃそうしなければならんのが、仏教なんだから。本気で仏教を頂こうと言う訳にはいけん事なってくる。ね。もう久富先生あたりごたるあげん、酒好きがよう、キリスト教の信者をやりよったち思うです。あの人は熱心だったですけんね、もとは。本当ですよ。とにかく、久保山先生ごたるとはすぐ破戒坊主になるだろう(笑)。(?)ね、それこそもう私は久富先生ごたるとは、もう本当に隠れてからでん飲むごたるとじゃったけん、もう、キリスト教の教えはそれで終わりになってしまう。久富先生じゃろうが久保山先生じゃろうが助かられる道なんです。お道の信心とは。ね。だから、そういうところをです本当に分からなければいけんと言う事。教祖の神様はどのように素晴らしい御教えを自分がそれを頂いて私共に教えておられる、しかも、人間と身代と達者がです、ね、金光様のご信心すりゃ、もう、財産はつくっちゃならんとは決して仰ってはいないです。それを、間違えておる人がいる、もうその日暮らしのほうがよかとのごと思っちゃる人があるですもんね。はあ、毎日毎日お生かしのおかげを頂いておるし、ち言うてから、もう、明日は米はなか、けれどもちゃんとあくる日になったら神様がおかげ下さるもんじゃけんね有り難い事、なら、そこは一遍通らないかんです。けれども終いにはやっぱり、それこそ米は10表でも20表でも、積み上げとるぐらいなおかげを頂かないかん。銀行に行きゃあ億万の金でもちゃんと、預金が貯えが出来るようなおかげを頂かないけん。しかも、達者でしかもそれが親に、子に孫にという事はです、これはもう代々と言う事だと思うのですね。三代続いたら三代だけではない。そういうもう人間、人間の一番願いとする理想とする所のおかげをね、頂きつつ信心を進めていこうというのがお道の信心なんです。ね。もう、この辺を私共は本当分からせて頂いたら、本当それはお道の信心が素晴らしいという事は、を、感じん訳にはいかんです。ね。
昨日、丁度三時頃だったでしょうかね、高嶋さんが二度目のお参りをされた時でした、久留米にチョットよられました。なら、お茶なっと飲んじからとお話しちから、お茶ドン二人で頂きながら、なんかの話からその、「先生、今椛目にこげんしておかげを頂きよる総代とか幹部とか、皆一つあの改式のおかげを頂いてから、もうそんくらいのおかげを頂かなければいきませんばい」と言うて、総代じゃけん幹部じゃけんちうてそげん、改式せんならんと決まっちゃおりゃせんけれども、なら高嶋さんが言われる通りに、もう改式でもしなければおられないという信心が頂けなければダメだという事ですね。地上ではこの世では、ね、それこそ、一切を神様におすがりをしお願いをし、ちょうど、そん時に高橋さん所の、七五三のお礼の参拝があった。下のが三つ上のが五つですか、二人共奇麗な着物を着てから、丁度高嶋さんが帰ろうとしよなさったところに参ってきたですもん。それけん、(?)進んでから、二人こうやりよんなさりました。もう高いお茶(?)引き止めたもんじゃけん(笑)(?)ね。そういうその、高嶋さんが言われる所の例えば改式でも、せにゃならんというのではなくて、しなければおられなくなってくる。天地の大恩が分かってくれば。いわゆる、まあそれこそ七五三であろうが生まれた時であろうが、ね、結婚する時であろうがどのような時でもです、ね、地上での間は金光様、けれども、あの世に送ってもらう時にはチーンでなからねばいかん(笑)。もうこげなばからしい話はないですよ本当は。もうその程度にしか金光教は分かっておらなかったかという事になるのです。いや、その程度にしか天地の大恩が分かっていなかったかという事になるのですよ。
私は夕べその高嶋さんが言われた事が非常に心に残るのですね。ほんなこつなあ、椛目の方達がだんだん、おかげを頂いてそれこそ新しい建築でもする時には本当にあの、神様の部屋ぐらい1部屋ちゃんとその、おかげを頂くごとならないかん。そして、神様も御霊様も、もう、先祖代々の御霊様からこれからの子々孫々にいたるまでです、この御霊舎に鎮まれるんだというような、私はもう本当に、堂々たるですね、お神様の間といったようなものかね、御霊様の間といったようなものが、出来るようなおかげを頂かなければいけん。それを願いとしなければいけん。お互いが。
●というような事を思わせて頂いておりましたらですね、そんな昨日頂きます事が、「結納」という事を頂くのです。ね。結婚の時に納めるでしょう。結婚のいわば話がつきますとですね、いわゆる「結納」がもうすまされたこう申します。結びを治めると書いて。私それを頂いてから思うたです。天地の大恩が分からせてもらい、天地の親神様との結納が取り交わされる。それで初めて金光大神の信者であるという事のが初めて言えると思うですね。ですから、まだ、改式もしていないというならですね、そりゃ、まだ見合い中の事ですたい。結婚以前のお付き合いの事ですたい。そうでしょうが、ですけん、ちょっとあいた事がありゃ、もう、破談になる。結納をしとらんもんじゃけん。はあもう金光様だけじゃなかけんと言う事になってくる訳ですたい。だから、本当に私思わせて頂いて、折角おかげを頂かせてもらうならです、本当に結納の取り交わしがあってです、ね、それこそ、「貴方は百まで私九十九まで」だけでもない、あの世までもです、あなたのおかげを頂かねば助かられんのだという一つの信心と思い込みが出来て初めて、改式が出来るのでありますけれども。それとても天地の大恩が分からなければ、もう、とにかく改式すると助かるげなけん、改式するとおかげ頂くげなけんでくらいな事で改式したっちゃつまらん。ね。(?)みるところはみて、聞く所は聞いて、この御教えならば、この教祖の神様の教えられておる事ならばです、間違いないと分かった時に私は結納を取り交わされる所まで、いかなければいけない。
ね、結びを納めなければだめ。そこまで行って初めて私はんーおかげを頂けるのだとこう思う。ね、そこが分かって初めて、天地の大恩が分かったということになるのじゃないでしょうか。天地の大恩を知らぬから、ね、物事が互い違いになるのだと神様は仰る。世の中の難儀、悲劇というのは皆その、互い違いであり、いわゆるすれ違いなのである。信心をさせて頂くと互い違いになったごたるあるけれども、互い違いになったその事が、おかげの元になっておる。互い違いになった事が、たったちょっとした思い違いが、悲劇の元になったりするような事はです、天地の大恩を知らぬからだと言う事です。ね。天地の大恩をいよいよ分からせてもらい、ね、その、天地の大恩に報い奉る所の神恩報謝の生活が出来る。とにかく、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんという、思い込み。しかもこの世だけではなくて、あの世でもあなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのであるという思込みが出来てから、天地の親神様との結納が交わされる。初めて親のある子とない子との違いというのはそういうような所までいってからではなかろうかと。ただ、おかげを頂くという程度だったら、必ず金光様だけじゃなくてもいいですもんね。天理教だって、創化学会だって、奇跡ぐらいはやっぱあらわしておりますもん。
けれども、根本のところをいよいよ分からせてもろうたら、成程教祖の神様の説かれた金光教という信心が一番私共にピッタリした宗教であるという事が分かる。しかも、おー私共の、そうした一途の真心一心の信心をさせてもろうて、神恩報謝の生活をさせてもらう事によって、現世の助かりと同時に、あの世まで持っていけれる所の、お徳を身に受けさせてもろうて、あの世での助かりも約束されるというような、ところまで、しかも、親が子に子が孫に伝えていけれる、ね、それこそ、迷わず疑わずです、末の末までこの信心をもう迷う所がない。疑う所がない。というのをまず、私共が把握しておいてそれを、子供にです疑問点が残っておると子供に譲るなんてそげな無茶な事はいけません。ね、もう本当に確信の出来れる、それをです、子供に孫に伝えていこうという、信心にならせて頂く為にもです、いよいよ天地の大恩を分からせてもらう。おかげを頂いていかなくてはならんという事を感じますですね。 どうぞ。